薪ボイラーで風呂を沸かす。手間はかかるが最高の贅沢

burning firewood in fire pit 日々の暮らし

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はじめに:ボタン一つの便利さから、五感で味わう湯浴みへ

こんにちは。山陰の山村で、薪の香りに包まれて暮らしております、タカシです。

都会での暮らしにおいて、「お風呂を沸かす」という行為は、壁に取り付けられた給湯器のスイッチを指一本で押すだけの、何の意識も伴わない「作業」でした。設定した温度のお湯が、設定した時間に、蛇口をひねれば当たり前のように出てくる。その便利さが、どれほどありがたいものであるか、当時の私は考えたこともありませんでした。

この村に移住し、私たちの生活に深く根を下ろしたのが「薪ボイラー」の存在です。薪ストーブが冬の間の「暮らしの主役」だとすれば、この薪ボイラーは、一年を通して私たちの心と体を癒やしてくれる、縁の下の力持ちのような存在です。そして、この薪ボイラーとの付き合いは、私に「風呂に入る」という日常の行為が、いかに豊かで、奥深い体験になりうるかを教えてくれました。

今回は、スイッチ一つとはいかない、手間ひまのかかる薪ボイラーでの風呂焚きのリアルと、その手間を補って余りある、最高の贅沢についてお話ししたいと思います。

【風呂焚きの一日】薪を運び、火と対話し、湯と一体になる

我が家の一日は、しばしば風呂焚きの準備から始まります。特に、その日の夕方に薪ボイラーの風呂に入ろうと決めた日は、朝から少しだけ心が浮き立ちます。

その1:今日の「燃料」を選ぶ楽しみ

まず、母屋の裏手にある薪小屋へ向かいます。そこには、私たちが一年がかりで準備した、様々な種類の薪が眠っています。よく乾燥した杉の木は、火付きは良いが火持ちはしない。ずっしりと重いナラやクヌギといった広葉樹は、火付きは悪いが一度燃え始めると長く安定した火力を保ってくれる。今日の気候や、自分の気分に合わせて、「さて、今日はどの薪を主役にしようか」と選ぶ時間。これが、最初の楽しみです。

選んだ薪を、風呂場に併設されたボイラー室まで運びます。この時、薪の乾いた感触や、ずっしりとした重み、そして木の種類によって違うほのかな香りを、五感で感じることができます。すでにこの段階で、私と「今日の風呂」との対話は始まっているのです。

その2:火をおこし、育てるという「儀式」

ボイラーの焚き口に、細く割った焚き付け用の木と、古新聞をセットし、マッチで火をつけます。小さな炎が、パチパチと頼りなげに燃え広がり、やがて焚き付け用の木に燃え移る。その様子を、焚き口の小さな窓からじっと見守ります。

ここで焦って太い薪を投入してはいけません。火が安定するのを待ち、少しずつ、少しずつ、空気の通り道を確保しながら薪をくべていく。まるで、生まれたばかりの赤子をあやすように、火を育てていく。この時間は、私にとって一種の「儀式」のようなものです。都会の喧騒の中で忘れていた、物事とじっくり向き合うという感覚を取り戻させてくれます。

その3:湯加減は、自分の肌で確かめる

火が安定し、ゴウゴウと音を立てて燃え始めると、ボイラーの中を通る水が温められ、浴槽へと送られていきます。もちろん、我が家の風呂に「自動お湯張り機能」や「追い焚き機能」などという便利なものはありません。浴槽の湯に手を入れ、自分の肌で湯加減を確かめます。「うん、少しぬるいな。もう一本、太い薪をくべてやろうか」。そうやって、火と対話し、湯と対話しながら、自分にとって最高の「塩梅」を探っていくのです。

湯が沸き上がるまでの約一時間、私はボイラーのそばで、火の番をしながら本を読んだり、庭を眺めたりして過ごします。この、何もしない、ただ湯が沸くのを待つという時間が、驚くほど心を穏やかにしてくれます。

手間をかけたからこそ味わえる、極上の湯浴み

こうして、手間ひまをかけて沸かした湯船に、ゆっくりと体を沈める瞬間。それは、まさに至福の時です。

薪で沸かしたお湯は、不思議なことに、ガスで沸かしたお湯よりも格段に「柔らかい」と感じます。科学的な根拠は分かりませんが、おそらく、じっくりと時間をかけて間接的に熱が伝わることで、水の分子構造が何等か変わるのかもしれません。肌にまとわりつくような、とろりとした湯が、体の芯の芯まで染み渡り、一日の疲れを根こそぎ溶かしてくれるようです。

そして、鼻腔をくすぐるのは、焚き口から漏れ出す、薪の燃える香ばしい匂い。耳を澄ませば、ボイラーの中でパチパチと薪がはぜる音が聞こえる。視覚、聴覚、嗅覚、触覚。そのすべてで「風呂に入る」という体験を味わう。これこそが、薪ボイラーがもたらしてくれる、最高の贅沢なのです。

もちろん、良いことばかりではありません。夏はボイラー室がサウナのようになり汗だくになりますし、火の加減を間違えて、熱すぎる湯やぬるすぎる湯にがっかりすることもあります。そして何より、燃料である薪を準備する労力は、決して小さなものではありません。

しかし、それらの「影」の部分、つまり「手間」があるからこそ、私たちは湯船に浸かることのできるありがたみを、より深く感じることができるのです。便利さと引き換えに、私たちが都会で失ってしまったものは、この「手間をかける喜び」だったのかもしれない。そんなことを、湯船に浸かりながら、いつも考えています。

私たちの暮らしは、確かに非効率で、時代遅れかもしれません。しかし、その非効率さの中にこそ、人間らしい豊かな時間が流れている。薪ボイラーの湯船は、私たちにそう語りかけてくれているような気がするのです。

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