はじめに:失われたものと、手に入れたもの
こんにちは。山陰の山村で、静かに揺れる炎を見つめる時間に、至福を感じております、タカシです。
このブログを始めてから、多くの方に私たちの田舎暮らしの様子をお伝えしてきました。都会の便利な生活を捨て、この村に移住して五年。改めて振り返った時、私たちが「失ったもの」は、数え上げればきりがありません。
深夜まで煌々と明かりが灯るコンビニも、電車に乗ればすぐにたどり着けるデパートも、ふらりと立ち寄れるお洒落なカフェも、ここにはありません。最新の映画を上映する映画館も、文化的な刺激を与えてくれる美術館も、ありません。友人たちと気軽に飲み交わした、賑やかな居酒屋もありません。客観的に見れば、私たちの村は、都会に比べて圧倒的に「何もない」場所なのです。
では、私たちは、何かを失ってばかりの、乏しい生活を送っているのでしょうか。答えは、断じて「否」です。むしろ、私たちの心は、都会にいた頃とは比べ物にならないほど、深く、静かな豊かさで満たされています。「何もない」からこそ、見えてくるもの。「何もない」からこそ、手にすることができるもの。冬の長い夜、リビングの中心で赤々と燃える薪ストーブの炎を眺めながら、私はいつも、その「豊かさ」の本質について、思いを巡らせています。
「便利さ」と引き換えに、私たちが忘れていたもの
都会での暮らしは、言うまでもなく、圧倒的に「便利」でした。スイッチ一つでお湯が沸き、インターネットをクリックすれば翌日には欲しいものが届く。その便利さは、私たちの生活から「時間」と「手間」という概念を、少しずつ奪っていったように思います。
火を熾すという、原始的な営みの中に宿るもの
今、私の目の前で燃えているこの炎も、都会であればエアコンのスイッチ一つで得られる「暖かさ」に過ぎません。しかし、この炎は、スイッチ一つでは決して生まれません。そこには、春からの長い時間をかけた薪の準備があり、朝の冷たい空気の中で薪を運び、炉内に丁寧に組み上げ、火を熾すという、一連の「手間」が存在します。
その手間ひまをかける過程で、私は多くのことを感じ、考えます。薪の乾いた感触、斧が丸太を割る音、燃え始めの木の香り。そして、小さな火種が、やがて家全体を包み込む大きなエネルギーへと変わっていく、その神秘的なプロセス。この原始的な営みは、私たちが生きるために必要なエネルギーが、決して無尽蔵ではなく、限りある自然の恵みと、自分たちの労働によって生み出されているという、厳粛な事実を思い出させてくれます。便利さと引き換えに、私たちは、この「ありがたみ」を実感する機会を、忘れてしまっていたのかもしれません。
「静寂」という、最高の贅沢
薪ストーブの前で過ごす時間、そこにはテレビの音も、街の喧騒もありません。聞こえるのは、パチッ、パチッ、と薪がはぜる音と、時折、家の外を吹き抜ける風の音だけです。この深い「静寂」こそ、都会では決してお金で買うことのできない、最高の贅沢なのだと、私は思います。
都会にいた頃、私たちは常に何かしらの「音」と「情報」に囲まれていました。電車の中ではスマートフォンの画面を追い、家に帰ればテレビがつけっぱなし。沈黙が怖くて、常に何かで感覚を埋めようとしていたのかもしれません。しかし、この村の静寂は、怖くありません。むしろ、その静けさが、自分の心の奥底にある声に、耳を澄ます時間を与えてくれるのです。妻との何気ない会話、今日一日の出来事への感謝、遠く離れた子供たちへの想い。「何もない」からこそ、自分にとって本当に大切なものが、静かに浮かび上がってくるのです。
「消費」から「創造」へ。生きることの手応え
都会での暮らしは、極論すれば「消費」の連続だったように思います。お金を払って、完成されたモノやサービスを手に入れる。それはそれで快適なことですが、そこには「自分自身が関わる」という手応えが希薄でした。
不便さが、生きる知恵と喜びを教えてくれる
田舎暮らしは、その対極にあります。畑で野菜を育てること、薪を準備すること、壊れた雨どいを自分で修理すること。この村での暮らしは、「創造」の連続です。もちろん、その過程は面倒で、不便なことばかりです。しかし、その不便さこそが、私たちに生きるための知恵と、それを乗り越えた時の喜びを与えてくれます。
薪ストーブの上で、妻がコトコトと煮込んでいるのは、畑で採れた大根と、手作りのコンニャクです。スーパーで買ってきたおでんとは、比べ物にならないほどの滋味深い味がします。それは、「時間」と「手間」という、最高の調味料が加えられているからです。自分たちの手で、暮らしを、そして食べるものを創り出している。その確かな手応えが、私たちの六十五歳の人生に、新しい張り合いと誇りを与えてくれています。